今年で、私が所属している一般社団法人落語協会(会長:柳亭市馬)が創立100周年を迎えました。
東京の落語家が所属するこの協会は、関東大震災翌年の1924(大正13)年に発足。発足式は100年前の2月24日に上野の精養軒で執り行われたとのことです。100周年の式典は今年2月24日に、発祥の地・上野精養軒で開催されました。
協会発足直後( 昭和初期)、噺家の数は100人ちょっとでしたが、現在では600人弱いるそうです。協会の存在が落語を広く世に浸透させるとともに、発展させてきたのは間違いありません。 協会の歴史を紐解くと、数多くの名人がいたことに改めて驚かされます。やはり、昭和の名人の双璧といえば、「志ん生」「文楽」でしょう。歌でいえば、「聖子ちゃん・明菜ちゃん」。ちょっと古くてごめんなさい…(笑)。
志ん生師匠と文楽師匠は、まるで性格が違ったそうです。志ん生師匠は、お酒が好きで飲んだ状態で高座に上がることもしばしば。持ち時間も随分とめちゃくちゃだったそうです。一方、文楽師匠は、高座の時間は、いつも寸分狂わぬ、ぴったりと終わる師匠だったそうです。この性格の違いが高座でも全く両者違うので人気となり、落語ファンを二分しました。
私が落語協会に入会したときの会長は、三代目の三遊亭圓歌師匠でした。「歌奴」でもお馴染みの師匠です。そして、当時の最高顧問が、五代目の柳家小さん師匠。当時は「永谷園」や、「須藤石材」のテレビCMでお茶の間でもお馴染みの師匠でした。当時、副会長が古今亭志ん朝師匠。私が入門した年に亡くなりました。
見習いの時に、志ん朝師匠と二人きりでタクシーに乗ったことがあります。車中で師匠から「俺に何か聞きたいことはあるか? 」と、訊ねられました。あの名人、志ん朝師匠が、見習いの入りたての私にそうお声がけくださったのです。私は、「師匠はテレビで錦松梅のCMをやってますが、あれ、撮影大変ですか?」とお聞きしたのでした。すると師匠は「バカヤロー、落語のことで何か聞け!」。お叱りを受けましたが、これも私の大切な思い出、宝物です(笑)。
ということで、今年の寄席は「100周年特別興行」をいろいろと企画しています。先日は、関西から重鎮・桂文枝師匠が東京の寄席に出演され、連日、満員御礼札止でした。
さて、今年、下半期も色々な企画があります。是非とも皆さん、寄席にご来場下さいませ。次の節目は落語協会発足200周年でしょうか。その時は、また、こちらの誌面でご紹介出来たらと思います(笑)。